パールの遊び

                                                        2011-06-29
河嶋恒平

 
  パールという名前をつけたスタンダードプードル犬と、今から4年前に私たちが生後50日でお母さん犬のところから引き取ってきたときから、一緒に暮らしている。
  パールというのは、20年以上愛読しているロバート・B・パーカーという小説家の私立探偵スペンサーシリーズ(今年シリーズ39作目が出版されたが、遺稿となってしまった)で真の主役を演じているチョコレート色のジャーマン・ショートヘアード・ポインター犬の名前で(39作目では三代目パールがうろちょろする)、いつか犬を飼うことがあったらパールという名前がいい、とずっと思っていた。私たちのパールは、体高が65センチ、体重が22キロ、漆黒の体毛で胸に白い十字のすじがある。
  パールがきて1年くらい経った頃の初夏の早朝に、パールを連れて家の裏山の小道に散歩に行った。
  やっと軽自動車が通れるくらいの幅の、かつては砂利道だったものの砂利のほとんどは雨で流されて雑草がはびこりだしたような小道で、両側には、すでにクマ笹の新芽がびっしりと生えそろい、カラ松とクルミの木が林立している。カラ松は、ちょうど芽吹きが終わったところで、その新芽とクマ笹の若草色の間にカラ松の樹皮のこげ茶色が見える。
  ふだんはきちんとリードを付けているのだが、そのときは、まわりに何かいる気配がなかったので、油断してパールのリードをはずし、ヒールをさせ、山の静けさとひんやりした感覚を楽しみながら、のんびりと歩いていた。遠くでホトトギスが飛びながら鳴いていた。
  それは私にとって失敗だったが、今思えば、パールにとってチャンスはこの1回だけだった。
  突然、ドドッ、ドドッという重い足音がして、中型でごげ茶色のメスのニホンジカが3頭、右の山側からさっと飛び出してきて、私たちから5メートルくらい前方の小道を横切って、左の谷側に走って降りていった。
  私もパールも目を見開いて5秒ほど凍り付いてじっとしていたが、すぐにパールが激しく喜びだして尻尾を振り、シカたちの後を追って全速力で走っていってしまった。私はあわてて、ストップだのステイだのノーだのコラッだのパールだのオイデだのカムだの、いろいろと叫んだが、パールは興奮すると他人の言うことが耳に入らなくなってしまうたちだから、当然私の叫びは耳に入っていない。
  すぐにシカたちの姿は見えなくなり、それを追いかけているパールも見えなくなってしまった。シカたちとパールがクマ笹をかき分けるザワザワという音も、しばらくしてまったく聞こえなくなり、あたりは静かな小道に戻った。
  しばらく途方に暮れていると、聞こえなくなっていたザワザワという音が再び始まり、今度は左側からシカたちが姿を現し、私の10メートルくらい前方を横切って、右側に走っていった。すると、その5メートル後方を、パールが、嬉々とした表情で走ってついてきて、そのままシカたちに続いて右側に走っていった。背の高いクマ笹のなかをピョンピョン飛び跳ねながら走っているので、まるで緑色の波立つ海を泳ぐ黒いイルカのようだ。
  そのうち、シカたちもパールも見えなくなり、再びザワザワも聞こえなくなった。パールもシカたちも鳴き声ひとつあげない。
  パールがシカに飛びかかり、シカの後ろ足で激しく蹴られて致命傷を負う場面を想像した。そうではなくても、迷子になって野イバラにからまって動けなくなったパールを想像した。どちらも汗が出てくる。
  泣きそうになっていると、右側から再びザワザワの音が聞こえてきて、すぐにシカたちが現れ、今度は私の10メートルくらい後方を谷側に横切っていった。そして、またもや、その5メートル後方を、パールが嬉々とした表情で、飛び跳ねながら、ついて走って行く。
  パールとシカたちとの距離はさっきから縮まっても離れてもいない。
  ワオ。
  やっと気が付いた。
  なんと。シカたちは、パールに追いつかれるか追いつかれないかの速さで、わざとゆっくり走っている。パールはシカに遊んでもらっているのか。そもそもシカは遊ぶのか。
  そして、またしても、3頭と1頭の姿が消えて、音も聞こえなくなった。
  それからは何も起きなくなってしまった。
  5分くらい耳を澄ましていて何も聞こえず、迷子になったパールを探すのは大変だな、と思っていたとき、トボトボとパールだけが現れて、最初にクマ笹のなかに入っていった地点に戻ってきた。きっと、シカたちのほうで遊びに飽きて、本気で走っていってしまったのだろう。
  それまでに私はパールが走り出した出発点から30メートルほど歩き回っていたらしく、パールを呼ぶと、その30メートルを疾走して戻ってきたが、パールは私が初めて見る生き生きとした目をしていて、口角が上がって笑っているようだ。
  私は、パールを抱きしめ、リードを付け、理解しそうにはないとは思ったが今後は勝手にシカと遊んではならないことをきっぱりと告げ、その日の散歩を続けた。
  そんなことがあってからは、犬にとって野生のシカに遊んでもらうのはとても貴重な経験だなと思ったりするものの、パールにはしっかりとリードを付け、周囲の気配に注意しながら散歩をするようになった。
  今でも、月に少なくとも2、3回はシカと出会うことがあるが、そんなときパールは、首を伸ばし、鼻をヒクヒクさせて追いかけようとしてから(もちろん私の方はパールを必死で押さえていなければならないが)、シカが立ち去ったあとで、シカがいたあたりのにおいを心ゆくまで楽しんでいる。
  そんなとき、彼女の網膜と鼻孔の奥にはあのときの記憶がよみがえっていて、夜にはシカと遊ぶ夢をみているに違いない。


おしまい